サービスという名の残業が先月まぁまぁあったいちパパです。
今回は幼児期の遊びについて少し触れてみようと思います。よく遊び、よく学べとはよく言ったもので、塾いらずのお子様を育てた親御さんは総じて幼少期に上手に子どもと遊んでいたんだなぁと感じることがたくさんありました。もっと厳密にいうと小学校低学年までが多いように思いました。
どのご家庭もその時期の子どもはむしろ遊び以外に何かある?くらいだと思うのですが、上手にってところがポイントですね。
再掲にはなりますが、塾いらずのお子様を育てたご家庭は基本的に小学校高学年くらいから学習に関する「干渉」をほぼしていません。
非認知能力と表現していいのか、リテラシーと表現していいのかわかりませんが、今すべきことが何か、してはいけないことは何かの判断ができるので、いちいち勉強に関しての干渉はせずとも結果を出してきますし、結果が出ているからこそ口出しが不要となる好循環を生み出します。
#いつもの通りいちパパ調べ
で、その状態に持っていくための一つのルートが幼少期の遊び方にもあるな~と感じることがあって、少し具体的に書くと
最後まで投げ出さずに(勝負事なら勝っても負けても)最後までやりきる
これを塾いらずの当人たちから聞いていると幼少期に上手に親御さんがアシストしてきたように思うのです。
そこにそれぞれの親御さんはそれぞれの思いや意図があったとは思いますが、子どもへの対応の仕方が、そうですね、少し抽象的、比喩的にはなりますが「与える」「与え続ける」ではなく次につながるような促しに近いものであるように思いました。
巷でよく言われていることでもありますが、理詰めでもなく、叱るでもなく、諭すでもなく、次につながる思考を伝える。そんな感じと言い換えられるかもしれません。
今、このブログを読まれている方のお子様がいくつなのかはそれぞれですが、小学校低学年まではほとんどの子どもが素直です。極論ですが、親御さんの学歴がどうであれお子様がその時期は親の言うことを正しいと信じて吸収します。それこそスポンジのように。
だからこそ、この時期に1つの物事をやりきること、それからそれを糧にして次につなげていくマインドを醸成してあげるのは究極的な将来への投資になるのではないでしょうか。
最後に、いちパパ家の下の子にについてエピソードを。
下の子はとかく、自分が不利になると判断するとい「しない」「やりたくない」と敵前逃亡するところがありました。
あるとき、兄弟で交互に家の中のどこかに人形を隠し、それを見つけるという遊びをしていて、1体の人形をどこに隠したかを忘れてしまいました。二人で一生懸命探していたようですが、いかんせんどこに隠したかの記憶がないので(そもそも10体近い人形を隠して遊んでいたので、ほかの人形を隠してるときにどこに隠したのかを忘れてしまったのだと思います)見つかりません。
下の子は自分が隠したにも関わらず先に探すのをやめようとしました。そこで叱って「探させる」ではなく自分から「探さなければならない」と思考させるために
「途中で探すのをやめようと思ったのはどうして?」と聞き
「見つからないから」と返答があったので
「もし探せないとお人形さんはどうなると思う?」
「……」
と言葉に詰まったので
(ここで答えや大人(親御さん)の価値観を言わないことがポイントです)
「どうなると思うか言えたら一緒に探そう」
としました。
正直、答えなんてないんですよ。
下の子は
「人形がさみしい」とおよそ答えになっているような、日本語の対応としては答えになってないような回答をしてきましたが、問題ありません。
自分なりの正解を探そうとしてます。つまりエサ(正解)が与えられるのを待っていた状態を親側が否定し自分でエサ(正解)をつかみにいこうとしたわけです。
そんなこんなで、遊びの中身一つでもしっかりと「与えない」を意識して一緒に遊んで上げられればお金をかけずとも十分に幼少期の意味ある投資ができる=将来のお金をかけずに~につながるのではないかと思った次第です。
本日はここまで。お読みいただき誠にありがとうございました。