スマホなしで生活は…いや、知り合いの旦那さんは未だにスマホ持ってないので生活できるはず。たまにこれを考えるいちパパです。
#単なる現実逃避
本日はスマホについて。
友人から相談があったのでこれを機会とばかりに。相談内容はどこかで聞いたような「制限をかけるべきか」というもの。これ、塾の先生やってる方は15年前と一番大きな違いだと思うのです。「勉強しない」相談ではなくて「生活」の相談ですから。
受験論的にはどういう子どもが勝つのかはこれまでも何度か書いてきましたが、角度を変えていうと、自立しているか、そして「自律」できるか。それがあったうえでの集中力であり性格であり、だとは思います。
結論:自由を与えよ、されば本性が現れる
結局のところ制限をかけたところで、気持ちがそちらに向かっているならスマホが触れない時間も有効には活用できないと思います。例えば制限をどうやって解除するかをググったり調べたりして同じようにスマホに関わる時間を作るだけ、何ならスマホの中身を触れない分、生活の満足感も低くなってしまう側面があります。
制限した方が悪い方向にいっているかもしれません。よしんば、解除の仕方を見つけられたら、親は制限かかってる、子は「親は制限かかってると思っているから部屋でどれだけスマホタイムしていようが何も言われない」と最悪の事態になります。
人間のそれぞれの年齢や立場で「自由」を与えられたときにその自由を何に使うかが自己投資の究極系であり、そこにそれまでの人生が凝縮されると思う。と友人との会話でなりました。
空いた時間をいちパパのようにブログを書くのに使う、これがスマホと何が違うかって?文字を自分で書いているだけで、推敲するだけで、検閲するだけで自分の日本語の拙さなどに気づけます。なにより備忘録がてらに書いているので頭の中が整理されます。
#文章をまとめると頭の中整理される説
#検証希望
空いた時間に本を読むだけで、知らない世界の知らなかった知識が正誤は別にして頭に入る。例えば、青虫とキャベツ、それからチョウの関係性を書いた本を読むとします。そうすると、歩いている最中にキャベツ畑を見かけると「ここでも生存競争が起こってるんだなぁ」という感性を育ててくれます。
#スマホは短い情報のキャッチだけ
空いた時間にどろんこになって公園で遊ぶだけで土の質感、人との距離の取り方、自分の得手不得手に気づく可能性が出てくる。非認知能力を育てていく最たるもの。
仮定の話ですが、子どもがスマホばかりの生活→高3でいきなり予備校行かせてほしいとくる=本質的にスマホ依存を抑えられるわけがない→通えば何とかなると思っている時点で受験産業の沼落ち確定。
であれば、予備校行くときの覚悟くらい示せる人間であってほしいですよね。例えばスマホ解約するということに合意するとかね。
そこで親として、「やっとやる気になったか!」とするから親子ともども河合塾・東進・駿台・代々木のおいしいお客さんに早変わりです。実際は自分が変わるのが先であるべきなのにまだ誰かに変えてもらおうとしている時点で大学受験では先に走っている人に追いつけないのが現実です。
制限というのは他人から強制されるとその本人が激変することにはほぼ影響がないというのが経験上の答えです。これは友人も同意でした。一方で自ら制限をするというのは全く質が異なります。
むしろ、親が制限して(それをきっかけにして)勉強に熱が入り始めたという事例があれば教えていただきたいです。
というわけで、スマホについては制限するしないを親が議論している時点で厳しいというのが現場にいたいちパパの意見です。
#現場からは以上です
今回は少し厳しい文言が多かったですが、それくらいスマホは「危険」です。
親は無限にお金を出せるわけではない。子どもに投資をしているのであってリターンのない投資はたとえわが子であってもしたくない。という親の明確なメッセージをいつどのように伝えるかも大切かなと思います。
本日はここまで。お読みいただきありがとうございました。